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戯れの二座掛け持ちや五月晴

■五月大歌舞伎・昼の部@平成中村座(5/13)
今月は染五郎、七之助が平成中村座と新橋演舞場を昼夜で掛け持ちするというので、どんな感じになるか体験するために、1日で両方見物してみた。
というのは後付けで、実際は単に希望の座席や休みの状況を勘案していたらこんなスケジュールになってしまったというだけの話。
ただ結果的には、劇場間の移動とか普段とは違う体験ができて面白かったといえば面白かった。
ロングラン最終月の中村座・昼の部は「十種香」、舞踊「弥生の花浅草祭」、「め組の喧嘩」とボリュームたっぷり。
「十種香」は初見だったが、これだけ見ると全体の話の途中で始まり、途中で終わってしまう感がした。
続く「狐火」も未見だが、続けて見ればもっと八重垣姫の有り様がはっきりするのだろう。
七之助の八重垣姫、勘九郎の腰元濡衣、扇雀の勝頼などの配役。
久々に勘九郎の女形を見たが、毎月の出演で声がかすれ気味だったのが気になった。
来月の「天日坊」まで無事保ってくれればいいが。
全体としては、なるほどこんな話だったのか、と思った程度。
続く四変化舞踊の「弥生の花浅草祭」は、「三社祭七百年記念」と冠された一幕。
2人の踊り手が上演時間45分の中で「神功皇后と武内宿禰」、「三社祭」、「通人・野暮大尽」、「石橋」と次々変わって行くのが見所なのだが、全体的に期待していたほど面白くは感じなかった。
てっきり舞台後方が御開帳する毎度の演出がここか「め組」かで出ると思ったのに、今回はなし(なんでも18~20日の三社祭の時は「め組」の後に特別に後ろが開いて神輿が舞台上に登場したらしい。羨ましい限り!)。
それを残念に思ってしまったのもあったし、勘九郎はまだキビキビ踊っていたが、染五郎が疲労感のあるキレのない踊りで、2人で火花を散らすような舞踊対決が見られると思っていただけにこれまた残念だった。
となると、必然的に最も楽しめたのは「め組」。
正月に見たばかりだったので「またか」という気もしなくもなかったが、上演の珍しい「喜三郎内の場」が出ていたり、勘三郎の初役とは思えない瑞々しい江戸っ子ぶりに、素直に楽しませてもらった。
初見の「喜三郎内」は、辰五郎が喧嘩の本心を明かす「辰五郎内」の前段にあたり、辰五郎と喜三郎の互いを思いやる様子が描かれるので、結果的に「辰五郎内」に深みを与える。
さらに、大詰で喧嘩を仲裁する喜三郎の人物造形にも深みを与えるので、今後も是非上演してほしいものだ。
大詰で実際に喧嘩を見せる件りになると、どうしてもダレてしまうが(相撲取りが肉襦袢である以上どうにも滑稽味が勝ってしまう)、そこに至る「辰五郎内」~「神明町鳶勢揃い」までは本当に興奮する。
特に大好きな場面、「辰五郎内」で亀右衛門(錦之助)が纏を担いで花道を引っ込んで行く場面は、花道横の席を取っておいて良かったと心底思った。
さらに「勢揃い」で、大人数の鳶たちが狭い中村座の舞台~花道を疾走する姿にも大興奮。
それから、確か勘九郎が纏を持って振りながら引っ込む件りがあったが、昼の部出ずっぱりの疲れを感じさせない颯爽とした姿にこちらまで気持ち良くなった。
そして、何と言っても勘三郎の辰五郎。
年齢的なものもあるが正月の菊五郎とはまたひと味違い、等身大の辰五郎が舞台にいるように思えた。
序幕で若手をたしなめる親分肌の格好良さもそうだし、「辰五郎内」で半纏を上に放り投げてそのまま着る仕草もそうだし、「喜三郎内」で見せるリアルな人間味もそうだし、どこをとっても江戸っ子の粋に満ちあふれていた(と、非-江戸っ子が知ったように言うのもなんだが)。
憧れとしての江戸っ子が、リアルにそこに存在していたように思う。
先にも書いたが、三社祭シーズンにはこの幕切れで神輿が入ってきたというから、劇場がどれほどの盛り上がりだったか。
舞台という生モノとの出会いも一期一会なんだな、と改めて思い知らされた気分だ。


■五月花形歌舞伎・夜の部「通し狂言 椿説弓張月」@新橋演舞場(5/13)
中村座の興奮冷めやらぬまま、慌てて無料バスに乗り込み、新橋演舞場へ移動。
三島由紀夫が自決する前に作・演出した最後の歌舞伎「椿説弓張月」の通しを見る。
今まで白鸚、幸四郎、猿之助が主演で3回上演されただけの、それこそまさに「珍品」。
しかも、猿之助の時はかなり手直しがされているらしく実質的には別物と考えられるので、三島が携わった初演を踏襲した形では3度目となる。
猿之助の時は3時間ちょっとに削られた上演時間も、今回は初演時の4時間超よりはわずかに短いだけの、上1時間、中1時間30分、下1時間20分の計3時間50分で、久々に長丁場の観劇となった。
この作品、筋書の記述をまとめれば、三島が「純歌舞伎手法」を用い「強い様式の精神」を復権させるために作り上げたものだという。
確かに、上の「時代物の竹本劇」、中の霊の登場や琴を使った責め場、さらに舞台機構を駆使した大海での大立ち回り、下の琉球での因縁話やもどり、エンディングの白馬に乗った昇天などなど、「強い様式の精神」は随所に感じられた。
要するに三島は、歌舞伎というものが持ちうる様々な要素を徹底的に洗い上げ、それを馬琴の「弓張月」という作品に仮託して自分なりに再構築しようと試みていたのではないだろうか。
その作業を懇切丁寧にやった結果、4時間弱という長丁場の作品ができあがった訳だが、ではこれが今現在の観劇状況において「面白い」といえるかどうか。
これはかなり賛否が分かれるだろう。
自身としては、三島がこの作品でやろうとした企みはとても面白く感じたが、それを実際舞台として見せられた時の面白さや興奮はそこまでではなかった。
それは、花形で上演してしまったが故に、三島がやろうとした企みのすべてをきっちり舞台として具現化できなかった、という理由がひとつあると思う。
猿之助のように三島版「弓張月」をスーパー歌舞伎的にアレンジするのもひとつの手ではあるが、そうではなく、三島の構想(妄想)した世界観をきっちり具現化できるだけの役者陣を揃えて上演していれば、三島の企みがダイレクトに舞台上に立ち現れていたのではないだろうか。
その意味では、せっかく二座掛け持ちまでした染五郎や七之助は労多くして功少なし、という状況だっただろうし、観客にとっても同様な状況だった気がしてならない。
三島の妄想のポテンシャルは、あの舞台で具現化されていた程度ではなかったはずだと、英雄史観的な見方も若干入っていることを自覚しつつも、思ってしまう。
単純に、三島にとっても、役者にとっても、観客にとっても、もったいない上演になってしまったように思う。
唯一、興奮(というと変な意味に聞こえるが)したのが、琴を使った責め場だ。
白縫姫(七之助)が奏でる琴に合わせて、裏切り者の武藤太(薪車)に腰元たちが竹釘を木槌で打ち込ませる件りなのだが、ふんどし一丁の筋骨隆々たる男を、女が責めて嬲り殺すという絵面は、そのまま「薔薇刑」の写真群を想起させ、これが「三島歌舞伎」であることの所以を体現しているようで嬉しくなった。

# by ukiyobiyori | 2012-05-22 00:40 | 歌舞伎 | Comments(0)

PM6:30九段下 PM11:00新木場 AM5:21夢の中 → Perfume VS capsule

■Perfume 3rd Tour「JPN」追加公演@日本武道館(5/11)
予想外にチケットが当たってしまったので、金曜日だというのに仕事を早めに切り上げてお一人様で参戦。
そういえば、Perfume@お一人様は、最初の出会いである横浜ブリッツ以来、実に4年ぶり!
なんと。
2008年11月の2デイズで来た時はもっと広いと感じていたが、ドームとか経験してしまうと武道館はそんなに広くないことを実感。
実際、SSAの時とは舞台も違い、エンドステージとそこから真ん中、左右へ斜めに3本花道が出ているのみ。
座席は2階東最後列、というなかなかの席だったので、最初から熱狂的な参加者ではなく、冷静な制作者の気分、舞台監督然として関与しようと決めていた。
セットリストはSSAとほぼ同じ、アンコールの「ドリファイ」と「パピラ」が抜けて、途中に新曲「コミュニケーション」、アンコール1曲目に「我が世の春」が入った。
勝手知ったるものなので、開演後もさして熱狂せず、なんなら金正恩然として(体型含め)、1万人の客席を睥睨し、取って付けたようなねぎらいの拍手を送ってやっていた。
のだが。
4曲目の「エレワー」が来た日には、おじさんもう大変。
Perfumeのライブはだいたいいつも中盤までは盛り上がりに欠けるのだが(中盤以降に神曲オンパレードを持って来る都合上仕方ない)、どんな場所でも「エレワー」が来ると必ず感情が高ぶる。
楽曲もだし、ダンスもだし、改めて「エレワー」の魅力を再確認した。
中盤アトラクションのパートは、まさかの吊りスピーカー群が邪魔になりほとんど見えない仕様。
ざんなし。
新曲「コミュニケーション」は、かつての「ション・ション」シリーズを彷彿とさせる雰囲気。
Aメロ冒頭の「ほっぺたのふくらみくらいはあるよ」で、ゆかちゃんがローラ然として頬にOKサインを当てる件りがあったのだが、モニターをちゃんと見ていなかったので、やったかやってないか視野の端でしか確認できず。
「ここスポ」のてへぺろ☆だけかと思ったらこんなとこにも!!!と、この公演で一番の後悔。
「我が世の春」はMVと同じ衣装、しかもまさかのLEDちゃんと光るエディションでびつくり。
ダンスそっちのけで、光と歌がどれだけシンクロしてるのかとかばかりに目が行った。
MCは、中田ヤスタカコスの人が「この後は新木場でリリパ」とカンペ的なのを掲げていたり、それからの流れだったか、ヤスタカが両親を連れて見に来ていた件りの再現だったり、「あたりまえ体操」のぐだぐだな真似だったり、愛くるしいったらない。
この日の勝手にMVPはのっち。
冒頭のMCで「『君たちは宝石だ』とアンケートに書かれていてグッと来た。51歳の方から」というちゃんとオチのある話をしたり、PTAコーナーで内外×ジャンプのジャンプ部分をあまりやってなかったのが見えたのか「ちゃんと跳べ!」と強要したり、「FAKE」でバッキバキに半狂乱してたり、「ジェニー」のあおりがパンチ連打だったり、「春」で床のすき間に突っかかったり、どれか忘れたけどマイク落としたり。
なんやもう、全部素敵。
1月のSSAの時も書いたが、いま本当にPerfumeは旬の中の旬、「ド旬」とでもいうべき時期を迎えているといっても過言ではない。
冷静な舞台監督=金正恩を気取っていたはずが、「気がつきゃもうバキバキに痺れてるってwhat key?」(@MC菊地)状態に持ってかれてるんだからたちが悪い。
結局熱狂してしまい、クールダウンしながら大人しく帰宅、と思いきや、その足で新木場に行ってしまうんだもの。


■ASOBINITE!!!×capsule "STEREO WORXXX" RELEASE PARTY@ageHa(5/11-12)
そもそもリリパの存在すら知らなかったが、パフュヲタな後輩に誘われて二つ返事で行くことに。
したものの、メインフロアとサブ、さらに野外にプールとテントみたいな計4か所で延々朝まで音楽がかかり続けるんだから、年寄りにはなかなかハードなイベントだった。
基本的にはメインフロアにいて、Taku Takahashiだの、FPMだののプレイを見物。
テンションと体力的に一番楽しめたのは、DJ Takuの件り。
「let go」「Lotta Love」などメジャーな自曲あり、capsuleの「jelly」あり、ナウシカあり、消臭力あり、さすがm-flo、格好良さとポップさとキャッチーさと、すべてが絶妙に配合されていて自然と踊らされた。
FPMの時にはさすがに疲れてきたので、外のフードコーナーでチキンライスなぞ食し癒される。
それにしても、この日は野外がけっこう寒くて、フロアとの温度差が激しかった。
もうちょっと暖かかったらまた違った楽しみもあっただろうに。
フロアに戻ってFPMの終盤をちょっと聴き、さあ真打の登場。
それまで本舞台ではない下手側の一角でDJしていたが、ヤスタカは本舞台にかかった黒いカーテンが一気に引かれ、上下左右をモニターに囲まれて大々的に登場。
しかも、楽曲が「FLASH BACK」なんだもの。
そりゃ盛り上がらないわけないじゃないの。
と、自然おネェ口調になるほどの盛り上がり。
DJブース後方から白い照明がファサーッと当てられたのを見て、ああこれが「神」(宗教ではなくネット用語としての)と呼ばれる所以なんだな、と妙に納得した。
のはいいんだが、こしじまさんが出てきて2~3曲した辺りでフロアの酸素の薄さに死の危険を感じ始め、出て行く人の後ろにくっついて一時避難。
意識朦朧としながらあちこち彷徨い、断続的にメインフロアに来ては、断片的にヤスタカのプレイを拝見。
Perfumeやぱみゅりんの楽曲もかかったんだが、なんでこうもヤスタカの産み出す楽曲は一々「アガる」のか、と。
Don't think. Feel!といったところなんだろうが、この頃にはとっぷり疲れ果て、完全に思考も感覚も停止状態。
プールの脇で廃人然として、朝焼けを眺めていた。
こういうとこには体力があって、さらに多少軟派なスタンスで来ないとダメだということが知れただけでも収穫。
散会し、始発辺りの電車でようようの帰宅(本当はこの後さらに花の稽古があったんだが、そこはそれ――)。

# by ukiyobiyori | 2012-05-17 02:28 | 音楽 | Comments(0)

平成二十四年の芝居馬鹿たち

■鳳凰座歌舞伎@鳳凰座(5/3、4)

【子供歌舞伎 三人吉三巴白浪 大川端庚申塚】
今年も裏方&観客として参加してきた鳳凰座歌舞伎の感想を写真とともにメモ。
義太夫が使われないからか、意外に黙阿弥物の上演は少ない。
お嬢役の子供の、朗々たる台詞回しにうっとり。
川に落とされたおとせは、台車で袖へ。
奈落がなくても工夫でなんとかなるものだ。


【心中宵庚申 八百屋献立】
田舎芝居ならではの演目らしいが、自身は初見。
半兵衛と千代の心中の原因として、後家のおくまが半兵衛に横恋慕するという筋を付け加えたものらしい。
おくま役の保存会会長は何度も演じているとあって、すっかり自家薬籠中。
他の役は若干薄めだったが、おくまの滑稽味で持ちこたえた感じだった。
最後は世話だんまりでの幕切れ。


【伽羅先代萩 御殿~床下】
以前に見た時は「飯炊き」はカットだったが、今回は全編やるとのことで、こちらも気合いを入れて見た。
政岡役の役者さんはいつもながらの安定感で安心して見ていられた。
それに応えるように、千松役の子供も芸達者で、初日、2日目とどんどんよくなり驚いた。
八汐の憎々しさは、身内でも嫌になるほどの出来。
荒獅子男之助も迫力十分。
仁木弾正はなんと80代後半の大ベテランが勤めた。
ドライアイスが花道を覆う中、不穏な雰囲気ですっぽんから登場し、無言で引っ込む姿は一幕を締めくくるだけの大きさと充実感に満ちていた。
全演目の中で、個人的には一番満足した舞台だった。


【新版歌祭文 野崎村】
中堅、若手による「花形」的一幕。
唯一回り舞台が使われ、初日は若干まごついたが、2日目はその辺りもスムーズに行き、お光が久作に泣きすがる幕切れもテンポ良く進んだと思う。


【源平布引滝 実盛物語】
初めてまともに鳳凰座歌舞伎を見た時、「寺子屋」の松王をやっていた大好きな役者さんが久々に復帰し、実盛を勤めた。
物語の件りの凛々しさ、最後の太郎吉とのやりとりの清々しさ、どこをとっても格好良い。
瀬尾役も仁木弾正より少し下の年齢だが、それを感じさせない憎々しさと情愛を出していた。
馬こそ登場しなかったものの、演目の魅力が存分に楽しめる、とても気分の良い一幕だった。

# by ukiyobiyori | 2012-05-08 01:03 | 歌舞伎 | Comments(0)

THE BEE(日本語版)/現在地

■NODA・MAP番外公演「THE BEE」(Japanese Version)@水天宮ピット(4/29)
大筋では英語版と同じだったが、日本語を母語とする自身にとっては日本語版の方がより作品の生々しさを感じた。
それは英語と動作を見聞きした後に字幕を見て内容を理解する、という作業を経る必要がないため、表現が直接的に伝わり、理解しやすいという当たり前の理由でしかない。
ただ当たり前の理由ではあるが、日本語話者である自身が両方を見た印象としては英語版の方がより様式化され、日本語版の方がよりリアリスティックであるように感じられた。
それは、英語版ではキャサリン・ハンターと野田秀樹が性別を入れ替えて井戸と小古呂の妻を演じていたのに対し、日本語版では性別通り野田が井戸を、宮沢りえが妻を演じていたのにも起因する。
ハンターの井戸はまだ男性としても見られたが、野田の女装には生々しさを感じることは難しかった。
その点、今回の野田×宮沢の文字通り「絡み」は、ちょっと目をそらしたくなるくらいの生々しさ。
言語、性別の入れ替えの有無という2点が、両作品から受ける印象を違ったものにしていた大きな点だと思う(英語話者にとってはまた違う印象になるのだろうし)。
言語の違いは、井戸の心的変化の分かりやすさにも影響した。
ハンター演じる井戸はそれこそ様式化された能の登場人物のように(英語が解せないが故に)感じられたが、野田の井戸は異常な行動に走りつつも、その行動の理由が説明的に分かるように感じられた。
特に内面が説明的に示されていたのは、自分の子どもの指が送られ一度は家を出ようとするが、思い直して小古呂の子をあやしながら昔話風に事件について話しているうちに、自分が悪として生きるべきだということを自認し出す件り。
この行為遂行的発話による覚醒は、ハンターの時には曖昧にしか捉えられず、野田の井戸を見てようやく理解できた部分だった。
舞台美術は英語版のハーフミラーを使ったのとは違い、巨大なクラフト紙?が背面から吊られ、舞台上まで敷かれていた。
それを吊り上げたり、破って穴を開けたり、プロジェクターで映像を写したり。
指の送り合いの百百山警部は後ろから照明を当てて影のみ。
エンディングは英語版は井戸の指切りで終わるが、日本語版はたくさんの蜂の映像と轟音の中、池田成志が紙で演者も小道具も包み込んで幕。
キャストは野田の井戸、宮沢の妻、池田の百百山に近藤良平の小古呂と息子。
先に英語版を見て流れを知っていたからかもしれないが、子どもと小古呂の入れ替わりとかは英語版の方が鮮やかだったような気もする。
楽曲は相変わらず尾藤イサオの「剣の舞」。
蜂をお椀で捕らえた時と、銃で撃ち落とした時に流れたことを確認。
安定の「ドイヒー」さにほくそ笑みが止まらなかった。
快晴に恵まれたこの日は、水天宮でたくさんの家族連れが安産祈願し、ピット隣の公園でもたくさんの子どもが遊んでいた。
そんな平和な場所で、こんな不穏な舞台が繰り広げられるという事態。
これはそのまま、平和な世界の一角で今もこんな不穏な事態が起きていることの象徴でもあり、二重にモヤモヤした気分になった。


■チェルフィッチュ「現在地」@神奈川芸術劇場大スタジオ(4/30)
見終えて、ペンギンプルペイルパイルズの「ベルが鳴る前に」を思い出した。
PPPPがファンタジーに仮託して震災以降(それを含む文明批評)を描き出していたのに対し、チェルフィッチュはSFテイストをまといつつも、そのままズバリ震災以降の「現在」を描き出していたような印象だった。
現実とフィクションの配合具合の違いとでもいおうか。
そうした「現在」をズバリ描き出す作業に、非英雄的で、島田雅彦的にいえば「非マッチョ」な存在である女性7人を主人公に据えたのは大正解。
本作では若い世代の女性ばかりが表象を担っていたが、自分の思ったことを好きなように話してしまう、という女性の(あくまでジェンダー的な意味での)特性はあらゆる世代、さらには「男おばさん」辺りにまで普遍的だ。
それは今日日流行の「女子会」に通じるものでもあり、傍から見れば楽しげに会話をしているようでも、実は言いたいことを言い合っているだけ、というノリに過ぎない。
これは否定的な意味でもいわれるが、むしろ岡田は女性が複数人いて仲良く会話をしていても、その内実には微妙な差異、もっといえばディスコミュニケーションがあることを、現在、震災以降を生きる様々な人たちの思惑を描き出すのに効果的に用いた。
それは例えば、同じお菓子を食べて話している場面や、同じ湖を眺めて話をしている場面などに象徴的。
同じ時空、行為を共有していても、そこには微細な差異が生じているという事態を描くその描き方、そして役者陣の演じ方は秀逸という他なかった。
余談だが、お菓子の件りで、甘さによる満足感は政治家なんかより偉い、といったのはけだし名言。
このように女性の特性を生かして、たっぷり2時間かけて震災以降の人々の思惑のバリエーションを提示した後で、最後に岡田は演者の一人に「村があったことを忘れるな!」と観客に語りかけさせる。
客電がつき始め、そして7人の演者が観客席をほとんど睨み付けるに近い眼力で見渡す。
このエンディングだけとっても、岡田の震災以降の変化を如実に表しているといえるだろう。
CINRAのインタビューで岡田はこう語っている。
岡田:フィクションって、嘘とか作りごととかじゃなくて、オルタナティブな現実なんだっていう認識になってきたんです。それは第二党みたいなもので、与党ではないから現に政権をとっているわけじゃないけど、常に現実と対置されていて、いつひっくり返るかわからない。現実とそういった緊張関係を持っているフィクションの存在が、現実には絶対必要なんだと、よく分かったんです。

[この世界を脅かすフィクション チェルフィッチュ『現在地』
http://www.cinra.net/interview/2012/04/02/000001.php?page=2]
このインタビューにもあるような現実のオルタナティブ、第二党としてのフィクションを、まさにあのエンディングは体現していたように思う。
震災以降のクリエイターたちの反応は、震災を意識はするがそれと創作とは別というスタンスと、岡田のようにべったり意識するスタンスに分かれる。
今まで前者だと勝手に思っていた岡田が、こうして後者のスタンスをとるようになったのはとても興味深い。
今後の方向性が楽しみだ。
もうひとつ余談。
「不安をあおる奴はいらない」と言ってハナを絞殺する場面で、殺す側だったのが青柳さんでびっくり。
昨年末のミッフィーちゃんとはまたえらい違い。
表情や感情表現などのメタ・コミュニケーションが機能不全に陥っているかのような青柳さんの演技は、こういう場面にも合うことを発見して勝手に嬉しくなった。

# by ukiyobiyori | 2012-05-02 23:02 | 演劇 | Comments(0)

バリー・トロッターと誰も望まない4月

<1日>
今年も嘘はつかない。
昼前に仕事をやっつけ、ヒューマントラストシネマ有楽町にてピナの3D映画の2回目。
映画にしろ舞台にしろ2度も見るのは珍しいが、前回一部寝てしまい見逃した場面があったのと、3D映画は映画館で公開中しか見られないだろうという理由から見に行っておいた。
前回は観客4人とかいうガラガラの状態だったが、今回は満席。
人がいないとそれだけ独り占め感が強くなり、逆に満席だと他の観客の興奮とかが伝わってくるので、どちらも体験できて良かったかもしれない。
ピナについては前回のヴッパタール舞踊団来日公演から一度も文章を書き出せていないので、いい加減何か記しておきたいなと思いつつ、なかなか難しい。
見終えて、SNGWのいつものGタン屋にてお久しブリーフな友人と会食。
人生いろいろ、会社もいろいろ、の顕現。
寺山修司に倣って「身捨つるほどの会社はありや」と喚きたい。
硬軟種々の話題に花を咲かせ、最終的に共通の友人が大病をしたことを知り、電話越しに見舞って散会。

<7日>
午前、立花。
午後、仕事。

<8日>
終日演舞場に籠もり、忠臣蔵通しを見物。
集中力途切れがち。

<9日>
休み。
朝も早うから法界坊を見るべく平成中村座へ。
既述の通り、隅田川沿いは桜が満開。
こういう時期に来たのは初めてだったので、「春のうららの隅田川」と歌われる理由がようやく分かった気がした。
舞台はこれまた既述の通り大興奮の出来。
名残を惜しみながら隅田川周辺をぶらつく。
中村座の裏に回ってみてどうなっているのか見物してみたり、スカイツリーと桜と隅田川のベストショットを探して彷徨ってみたり。
中村座と反対側の川べりには色んな出店が出ていて、麦酒でも買おうかと思っていると見知らぬおじさまに声をかけられ、仲間との写真撮影を所望される。
ばちっと撮ってあげると、お礼に麦酒をくれたのでその場でしばし歓談。
同席していたおばさまから「文楽見た方が良いわよ」と言われたので、今度見てみようかしらん。
おいとまして、さらにハイボールを飲みながら川べりをぶらぶら。
暑いくらいの気温に、絶景の桜、そして昼間から飲む酒。
ここは天国かしらんと思ったほど。
浅草の方に戻って、抹茶ソフト食ったり、浅草寺お参りしたり、奥山風景のとこで勘九郎ストラップもらったり。
完全なるお一人様の休日を満喫しながら、ホッピー通りにある赤某とかいう店で腰を据えて飲み始める。
隣にこれまたお一人様のおじさまが座ったので、話し掛けたら意外に文化系の趣味とかで話が合い、小2時間ほど放談。
ここは本当に良い場所だなあ、ああ吉田類になりたいなあ、などと思いながら暮れゆく浅草を後にした。

<12日>
夜、DCPRGリリパ@コーストへ。
巨躯を揺らして踊りしだき、周辺に多大な迷惑をかけたことを心で詫びながら、終演後、遅れて来ていた後輩と合流。
途中の駅の、抜け感が半端ない居酒屋にて終電ギリギリまで飲み食い。
この日はなぜか絶好調で、遅れがちな内面的な思春期と大学入学のタイミングが一致することによる認知の大爆発の話や、そこから続く「宇宙の缶詰」(@赤瀬川原平)的認識論的転回の必要性などを矢継ぎ早に説法。
長時間飲みながらだらだら話すより、1時間なり2時間なり限られた時間の中で飲みながら話す方が密度の濃い時間が過ごせることを実感した(だらだらにはもちろん、だらだらの良さがあるが)。

<14日>
午前、立花。
午後、調髪へ。
その前につけ麺を食ったのだが、案の定不発。
どうしてこうもラーメン系の不発は多いのだろうか。
週明けのnice broadcasting to youのためにばちっと整えてもらう。
満足。

<15日>
終日、仕事。
と同時に休みのようなもの。
暇つぶしに映画版『姑獲鳥の夏』など視聴。

<17日>
夜、nice broadcasting to you。
思っていたより楽しくて、たまにはこういう仕事もいいなあ、というのが終了後の感想。
興奮冷めやらぬまま帰宅。

<19日>
週末の予習として、つかこうへいの『寝盗られ宗介』を読了。
外のカフェーで読んでいると知り合いに2人も会う。
偶然の無駄遣い。
『寝盗られ宗介』は小説版も戯曲版もべらぼうに面白かった。
つか作品はきっかけがなくて今まで触れることがなかったが、名前をよく聞くだけのことはあるなあと失礼ながら感心。

<21日>
午前、立花。
午後、ィヨコハマにて岡崎藝術座「アンティゴネ/寝盗られ宗介」見物。
劇場も狭ければ、役者もわずか4人という濃密な舞台。
後半の「寝盗られ宗介」パートなんか単純に面白かったので、普通の演出でも見てみたい。
終日胃痛に苛まれ、胃薬を買って帰宅。
なんとか落ち着く。

<22日>
昼過ぎから国立劇場にて芝居見物。
さらっと見終え、途中の駅ナカで可もなく不可もないつけ麺を食し、一時帰宅。
ちょうど時間が合ったので電車内~自宅まで「粋な夜電波」を聞きながら、始終にやつく。
その後、深夜まで仕事。
つつがなく終了。

<25日>
1か月ぶりに通院。
結果も良好でこれで治療終了とのこと。
医者め。

<28日>
午後いっぱい仕事。
爾後、同期宅にて飲んだくれ会。
過日もらった大吟醸を持参し、なんやらかんやらな手料理を食しながら、折り目正しいホームパーティー然として。
要ることから要らぬことまで延々語り尽くし、明け方就寝。

<29日>
するも、ノン遮光カーテンのせいで数時間後に強制起床。
さらに煎餅布団のせいで右肩をいわしている。
家主に文句を垂れ、再びの不貞寝。
昼前に起き出し、仕事で早々に出て行ったやーつを除く残りのメンツで爽快感に充ち満ちた朝食。
今回一番の収穫は紅茶に豆乳を入れると大変美味しいことを学んだこと。
そんなことかと。
家主に礼だけ言い、快晴の休日を闊歩。
その足で、「THE BEE」日本語版を見るべく再びのSTGへ。
開演まで時間があったので不味いうどんを食し、水天宮を見物。
どうやら安産とかそっち系の神社であるらしく、赤子連れの家族が多数。
完全に場違いだったが、何かの時のためにお参りだけしておいた。
ばちっと見終え、内容が内容だけにモヤモヤした気分のまま、SBYへ。
オネーギンがもらった招待券で亀博を見物。
会場を探しがてらヒカリエ周辺をまわってみたが、異様な人の多さに辟易。
こういう用事がない限り、二度と来るまいと勝手に誓う。
亀博は、入場するとちょうどシアターが始まる時間で、まずはそれを見物。
内容は、一昨年の「四の切」@亀治郎の会の舞台とその裏側を描いた45分のドキュメンタリー。
見ながら、チケットを押さえていたにもかかわらず入院というまさかの事態で見に行けなかったことを思い出す。
舞台だけ見ているとなかなか大変さとかは伝わりづらいが、早替わりとか、舞台機構とか解説も充実していて改めてすごさを思い知った。
ちょっと感動するくらいの出来。
見終えて会場を見て回る。
個人史的な資料とか、収集している浮世絵・陶芸、舞台写真、実物の衣装・扇など見所たくさん。
一番目を引いたのは「四の切」の実物大セット。
しかも実際に舞台に上って機構を確認したり、記念撮影もできる太っ腹ぶり。
階段のところで登場シーンをやってみたり(狐ではなく完全に豚に近かったが)、宙乗りの狐忠信の人形もちょうど七三上空辺りに吊ってあったのでオネーギンとともに幕切れの義経、静になりきってみたり。
予想していたより面白いし、太っ腹な企画で満足。
ヒカリエ自体の混雑具合とは比べものにならないほど空いていたのも良かった。
見終えて、飲食階でひつまぶしを食し、無駄に精を付ける。
茶をしばき、要らぬことばかり喚き、帰宅。

<30日>
自宅の布団の心地良さを再確認し、起床。
いそいそと出立し、ィヨコハマにてチェルフィッチュの新作を見物。
いまだかつてない直接性に面食らいつつも、企みの面白さに一々感心。
時間潰しも兼ねて数駅歩く。
SNGWに移動し、いつものGタン屋にて素晴らしき残念な人々と飲食。
すべての料理に舌鼓を打ち、河岸を変え飲み直し。
どうにもこうにもな状況になってきたので、阿久悠なパイセンとどこぞに繰り出してしまい、ただ春の夜の夢のごとし。
生きてるって素晴らしい。
帰途、2人して素晴らしさの内実を再確認したところで、散会。
半ば昏倒しつつ帰宅。
え、もう4月の終わりだと。
ふざけている。
徹底的にふざけている。

# by ukiyobiyori | 2012-05-02 04:29 | 日々片々 | Comments(0)

四月歌舞伎公演所感

■四月歌舞伎公演「通し狂言 絵本合法衢」@国立劇場(4/22)
国立45周年公演の最後は、昨年震災の影響で中止になった「絵本合法衢」の再演。
自身も見られなかった観客の一人だったので、再演を心待ちにしていた。
のだが。
役者も揃っているし、話の筋も分かりやすく、何より仁左衛門演じる2人の悪役がどちらも魅力的、と面白くなる要素はたくさんあったのだが、なぜか全体を通して見ても興奮だとか舞台にのめり込むような感覚とは無縁だった。
これは国立の通し狂言を見る時にありがちで、筋書を一々読まなくても分かりやすい筋ではあるが、じゃあそれが舞台全体の面白さにつながるかといえばそうでもない、という「舞台見終わった感」、「舞台見てやったぞ感」に乏しい感覚だ。
これは一つには、2人の悪役の尋常じゃない数の殺人の一々が、どれも演出不足で凄みや凄惨さ、おどろおどろしさにつながっていない点が理由だろう。
同じ南北の「四谷怪談」でお岩の顔面が崩れていく件りなどは、お化け屋敷並みのチープさで怖さが演出されているが故に、伊右衛門の非情な人間性が翻って明らかにされる。
それに比べて今回の2役はどの殺し場にも凄みがなく、死者の数に反比例するようにあまりにあっさり殺人が行われているように感じられた。
それはそれで怖いといえば怖いが、連日のニュースで「事実は小説よりも奇なり」を体現するような事件ばかり見聞きしていると、さすがにあの殺し方ではそこにリアリティーを感じることは難しい。
去年見たコクーン歌舞伎の「三五大切」まで行かないにしても、どこかああいうテイストの殺し場があった方がより2人の悪役の「悪」ぶりが、さらには最後の仇討ちが際立ったのではないか。
そんなことを思いながら、この演目でコクーン歌舞伎をやったら面白くなるんじゃないかと勝手に夢想していた。
それなりに面白く見られたのは、うんざりお松(時蔵)が香炉を強請りに行く件りから、それに失敗して太平次(仁左衛門)に殺され井戸に捨てられる件り。
強請った店を出て井戸のところに行くまでに、舞台が転換され、徐々にそんな雰囲気が醸し出されるから「ああこれ絶対殺されるな」と分かりつつも、太平次がどこで手を出してくるかにそわそわさせられた。
もちろん仁左衛門がやるからどの場面も見られるには見られたが、説明的で筋の通る部分をばっさり省いて、とにかく2人の悪人が徹底的に人を殺しまくる不条理で理不尽な舞台にした方が仁左衛門の実悪の魅力をたっぷり堪能できたのではないかと思う。
それにしても、10月を除いて国立45周年公演をすべて見たわけだが、ほとんどの月が「45周年記念」などと冠を付けるには程遠い出来に終わっていたのは残念至極。
唯一、12月の「元禄忠臣蔵」が見応えがあったと断言できる程度。
先月も書いたが、50周年の時にはあっと驚くような、そして驚きだけでなくきっちり内実の伴った公演を打ってくれることを切に期待する。

# by ukiyobiyori | 2012-04-25 00:32 | 歌舞伎 | Comments(0)

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